トラクターやコンバインなど、今日の農業機械のルーツをたどっていくと、鍬や鎌などの道具類、自然の力を利用した水車などの装置、牛や馬などの家畜、最終的には人の手足にたどり着きます。
こうした能力は、現代から見れば、あまりに非力で未熟なレベルかもしれませんが、そこには、先人たちの知恵と工夫の跡をうかがうことができます。
農業先進県と言われる岡山県。各地で営々と取り組んできた農業の足跡を探訪します。
トラクターやコンバインなど、今日の農業機械のルーツをたどっていくと、鍬や鎌などの道具類、自然の力を利用した水車などの装置、牛や馬などの家畜、最終的には人の手足にたどり着きます。
こうした能力は、現代から見れば、あまりに非力で未熟なレベルかもしれませんが、そこには、先人たちの知恵と工夫の跡をうかがうことができます。
農業先進県と言われる岡山県。各地で営々と取り組んできた農業の足跡を探訪します。
〒710-0054 倉敷市本町7-1 (倉敷アイビースクェア)
TEL(086)422-0011
開館時間 | 9:00~17:00 |
入館料 | 大人250円、学生(大~小)200円 |
※ 倉紡記念館は近代化産業遺産に登録されています。 |
<倉敷市の繊維産業発展のストーリー>が、平成29年4月、「日本遺産」(文化庁)に認定されました。
この日本遺産は、地域の歴史的特色や文化財にまつわるストーリーを国が認定するもので、倉敷市のストーリーは31の文化財から構成されています。
単一の市町村内でストーリーが完結する「地域型」としては、県内で初めての認定となります。
産業発展のストーリー申請にあたって、倉敷市が掲げたキャッチフレーズは「一輪の綿花から始まる倉敷物語」。綿花の栽培を起点に、紡績、さらには国内有数の繊維産地に成長していった足跡・・・を表しています。
ところで、「綿花」といっても、倉敷とすぐに結びつきません。倉敷の街を歩いても、綿花畑に遭遇することはありませんが、江戸中期以降、このあたり一帯では、綿やイ草などの換金作物が盛んに生産されていました。その様子は江戸後期の紀行文に、「見渡す所の田地に、過半は綿を植えたり」と記されるほどでした。
ではなぜ、この地に綿花が盛んに栽培されるようになったのでしょう。
じつは、ここにも岡山特有の「干拓事情」が大きく影響しています。
倉敷市が位置する岡山県の南部一帯は、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、大小の島々が点在する一面の海でした。近世以降の干拓によって陸地に姿を変えましたが、干拓されたばかりの土地は塩分が多く、米作りに向いていません。そこで、塩に強い綿やイ草が盛んに栽培されたのでした。
倉敷はかつて幕府直轄の「天領」でした。その興隆ぶりは綿花関連の流通によってもたらされたものであり、倉敷川河畔に連なる白壁土蔵群は綿花関連の品々を保管するためのものでした。
綿の集荷の中心地となったのは、倉敷川河畔のほか、北前船の寄港する玉島、児島地域。港町では、綿作の肥料となる干鰯やニシン粕が買われ、原綿、くり綿が出荷されました。 玉島港の記録によると、売り買いされる商品の実に9割が綿関係で占められるほどでした。 しかし、明治維新を迎えて、倉敷は危機に直面します。
経済活動は急速に鈍り、沈黙と無気力がはびこるほどの衰退ぶりでした。しかし、このまま傍観していてはダメだ、変革が必要だと、「倉敷の三傑」といわれた三人の若き士が立ち上がります。
三人は、倉敷にかつてのような繁栄を取り戻し、地方産業開発をするためにはどうすべきかを研究し、その結果、「倉敷の地に紡績業を興すべし」との結論に達します。これを地元の資産家、大原孝四郎に進言。彼らの熱意・本意をくみ取った大原は、明治21年、先行する紡績所を凌駕する、最新の設備を備えた倉敷紡績所を倉敷代官所跡に設立。心血を注いでこれを軌道に乗せたのでした。それ以降、倉敷一帯は、紡績を主とした産業地域、全国屈指の繊維産地へと飛躍発展するストーリーが刻まれていきます。なお、今回取り上げた倉紡記念館は、創立当時の原綿倉庫そのまま改修したものです。
倉敷発展の起点に「綿作」という農業あり。
これまでと違った視点で、白壁の街・倉敷を訪れてはいかがでしょう。
館内
倉紡記念館の建物は、紡績工場の元原綿倉庫。原綿にカビが生えないように、床や白壁に埋められた縦横の柱を木製にすることで、室内の湿度調整を行う工夫が施されています。全部で5つの展示室から構成されています。捲糸機
江戸時代末期のころに使われていた手仕事道具。糸を巻き取るための道具であり、布を織るための、最初の工程を担う道具でした。
手織機
日本で古くから使われていた手織機のひとつ。プラット社紡績機械
綿からゴミを除去するための混綿機械。当時の日本は機械工業が発展しておらず、倉敷紡績所で使われていた生産設備のほとんどは、先進国、・イギリスから輸入されたものです。丸締機(荷造り工程)
綿を梱包する機械。ドラム缶くらいの大きさに梱包していました。この機械は日本製(1913年)。
創業時の精紡機エンドフレーム
イギリス・プラット社製。1号機から4号機までの精紡機に取り付けられていたプレートを展示しています。
大正時代の紡績・織布工程の様子
倉敷紡績の創業時からの資料やパネルを展示してあります。倉敷の町が、綿花作りから紡績に広がり、やがて全国一の繊維生産地になる基盤を固めていきました。人間国宝・平良敏子さんの芭蕉布
戦時中、沖縄から女子挺身隊員として倉敷工場で働き、その折に、手織り技術を学び、大原總一郎氏から沖縄民芸の復興を託された平良さんは、故郷に帰り、沖縄独特の芭蕉布の第一人者となります。大原氏を偲んで、倉紡記念館に寄贈されたものです。棟方志功の襖絵
二代目社長・大原總一郎氏は民芸運動に共感し、民芸運動に携わった世界的な版画家・棟方志功とも親交がありました。社員のための礼法室に置くために襖絵を制作依頼。文は「玉磨かざれば器とならず、人生学ばざれば道を知らず」の意。