トラクターやコンバインなど、今日の農業機械のルーツをたどっていくと、鍬や鎌などの道具類、自然の力を利用した水車などの装置、牛や馬などの家畜、最終的には人の手足にたどり着きます。
こうした能力は、現代から見れば、あまりに非力で未熟なレベルかもしれませんが、そこには、先人たちの知恵と工夫の跡をうかがうことができます。
農業先進県と言われる岡山県。各地で営々と取り組んできた農業の足跡を探訪します。
トラクターやコンバインなど、今日の農業機械のルーツをたどっていくと、鍬や鎌などの道具類、自然の力を利用した水車などの装置、牛や馬などの家畜、最終的には人の手足にたどり着きます。
こうした能力は、現代から見れば、あまりに非力で未熟なレベルかもしれませんが、そこには、先人たちの知恵と工夫の跡をうかがうことができます。
農業先進県と言われる岡山県。各地で営々と取り組んできた農業の足跡を探訪します。
〒701-0303 岡山県都窪郡早島町前潟240
TEL(086)482-1511(早島町教育委員会生涯学習課)
休館日 | 毎週月曜日 |
開館時間 | 9:00-17:00 |
早島町は岡山市と倉敷市の中間に位置します。町の南部は児島湾干拓により開けた土地であり、この新たな土地に、人々は畳表の材料であるい草を植え、畳表を織りました。
畳が一般庶民のあいだに普及しだしたのは江戸時代中期から。この頃から需要は急速に高まります。早島地区で織られた畳表は「早島表(はやしまおもて」の名で大坂や江戸へ出荷され、その名を全国に知られるようになりました。
かつて全国一の生産量を誇った岡山のい草ですが、昭和40年代以降、急速に衰退していきます。生活様式の変化、他の生産地へのシフト、さらには海外生産&輸入へと切り替わり、かつて青々と一面に広がっていた岡山の夏の風物詩・い草畑を見ることはできなくなりました。
岡山産い草製品の名を一躍高めたのが、原料のい草を染色し、美しい模様を織り込んだ花筵(かえん)。「花ござ」とも呼ばれるものです。
その製造技術を確立させたのが、磯崎眠亀(みんき)(現・倉敷市茶屋町生まれ 1834-1908)です。
明治20年に彼が製作した超精密な花筵がこちらの資料館に展示してあり、細いい草を使った、まるで織物のような精緻な仕上がりに驚かされます。この技術が確立されて以降、早島は花筵生産の中心地として飛躍発展。織られた花筵は神戸港から主にアメリカに輸出され、当時の主要な貿易品の一つとして日本の近代化を支えたのでした。
また、この地域には花筵生産に関連した機械メーカーも多々誕生し、今日、さまざまな業種のメーカーへと変貌を遂げています。
先人たちの努力によって、昭和30年代に最盛期を迎えた早島のい草生産ですが、その後は急速に衰退の道をたどります。
現在、町内からい草栽培農家は消え、織機の音が響くこともなくなりました。
こちらの資料館は、畳やござを用いる日本独自の生活文化を支えてきた、地域の歴史と誇りを後世に伝える拠点としてあります。
温故知新。ここに展示されているのは、かつて繰り広げられた「進取の取り組みの足跡」です。技術者たち、職人たちが積み重ねてきた<確かな成果>を訪ねてみませんか。
館内
数々の織機のほか、材料のい草、栽培の道具、織りあがった製品、現代デザインのものも展示されています。い草選別機
用途に応じてい草の長さを揃える装置。シンプルな構造です。最盛期のパネル
昭和30年代の最盛期の様子がわかります。仕事は真冬に田植えし、炎天下で刈り取り作業するという過酷なもの。こうしたことが産業衰退の大きな原因となりました。磯崎眠亀の花筵
花筵立機
木製の織機械。オルゴールのピンのような木製突起が織機に組み込まれてあり、これを読み取って模様が編みこまれていく仕掛け。座機(ざばた)
鎌倉から江戸時代中ごろまで主に使われた織機。座った姿勢で操作する。足踏式中継機(なかつぎばた)
明治中期から昭和20年代まで使われた。踏木を踏むことによって、経糸の送り出しや巻き取りができる機構。ロール式織機
戦後広く普及した動力織機。織機の左右に2個ずつ取り付けたロールを回転させることによって、い草を挟んで飛ばし、経糸の間に挿入した。早島町花ござ手織り伝承館
花ござや中継表の手織り技術の保存と継承を図るために「花ごさ手織り技術保存会」により、手織りの実演が行われ、体験教室も実施されている。(早島町歴史民俗資料館パンフレットから転載)