気候温暖で、年間平均値(岡山市)は気温16.2度、降水量1,105o、日照時間2,030時間と、農作物の栽培に適した地。また、台風や地震などの自然災害が少ない県としても知られています。
恵まれた気候、立地の良さを活かして、岡山県は伝統的に「農業県」の顔を併せ持っています。
当社が作る機械部品の多くは、じつは大型小型の農業機械用。
農業と縁が深いことから、農業の面から見た、岡山の魅力や特徴をご紹介していきます。
日本を訪れる外国人の方が増えています。岡山でも、後楽園など、多くの外国人が訪れています。
旅行者の中には四国八十八カ所を歩き遍路する人など、その行動力、興味への意外性に驚かされます。そうした人たちを、普段着感覚のおもてなしで迎えたいところですが、彼ら彼女たちが一様に喜ぶのが、日本の和室、畳の感触だとか。
調べてみますと、この畳。中国から伝来したものではなく、日本独自に発達したものだそうです。つまり、日本固有の生活様式なのですね。だから、興味津々なのでしょう。
で、その畳やござの原料となるのが「い草」。このい草、日本一の生産量を誇っていたのが、岡山県。「岡山=い草の一大産地」として教科書で紹介され、広く認識されていましたが、いまはすっかり消滅してしまいました。い草そのものを知らない岡山県人がたくさんいるのです。
かつて、四国から本州への玄関口であった、宇高連絡船の到着するJR宇野駅。ここから岡山駅まで続く線路沿いには、見渡す限りのい草畑が広がっていました。ここでしか見られない、壮観な景色でした。
畳が一般住宅で使われるようになったのは、江戸時代後期から。明治の初期から岡山で栽培が盛んになり、1960年代後半まで全国一の生産量を誇るようになります。
なぜ、このエリアでい草が栽培されるようになったのか・・・。ここでも「児島湾干拓地」の特性が大きな要因となっています。干拓地の土壌は塩分が多く、稲作にあまり適していません。そこで塩分に強いい草が着目されたのです。
その後、生産地の主役は熊本(八代市周辺)に移り、岡山の生産量は急速に減少。70年代には韓国、台湾に移り、いまや主産の中心地は中国。現地で栽培、畳表にされ、日本に輸入されています。
その中国での生産も、畳需要の減少から年々出荷量は下降気味。確かに、日本の住まいは洋風化され、畳のある和室がオプション扱いですからなあ・・・(しみじみ)。
ところで、い草の生産は過酷なものです。真冬の冷たい時期に田んぼに入り、い草の苗を植えます。春から夏にかけ一気に成長して、真夏の炎天下で刈り取り作業。それだけではありません。泥に浸しての天日干しなど、3Kを超えるような仕事内容でした。
今の時代、誰しも敬遠したくなるきつい仕事ですよね。
明治になり、華やかな「花ござ」が発明され、海外にも輸出されたりしましたが、製品は総じて付加価値の高いものではありません。ですから、生産地は人件費の安い地方から外国へとシフトされていったのは、今日の繊維産業と同じ足取りです。
現在、日本で流通している畳表のほとんどは、日本の商社が現地で生産指導して製品化し、輸入されたものです。 栄枯盛衰といいますが、どの産業も永遠に続く保証はありません。岡山の農業も、米作、野菜作りから果物作りなど、常に試行錯誤、挑戦を続けて今日に至っています。
工業製品しかり。常に挑戦する心で、付加価値を生み出していく。ニッポンのものづくり共通の道であり、い草の栄枯盛衰は、付加価値創造の大切さを身近に教えてくれます。
日本人と畳文化。遠く奈良、平安時代から受け継がれたこの関係は、日本人のDNAに組み込まれていることでしょうから、これ以上の衰退がないことを期待したいものです(再度、しみじみ)。