農業先進県おかやま
自他共に認める晴れの国おかやま

気候温暖で、年間平均値(岡山市)は気温16.2度、降水量1,105o、日照時間2,030時間と、農作物の栽培に適した地。また、台風や地震などの自然災害が少ない県としても知られています。
恵まれた気候、立地の良さを活かして、岡山県は伝統的に「農業県」の顔を併せ持っています。
当社が作る機械部品の多くは、じつは大型小型の農業機械用。
農業と縁が深いことから、農業の面から見た、岡山の魅力や特徴をご紹介していきます。


岡山県南に広がるだだっ広い農地の、なんと5分の4が干拓地。
400年前から干拓が始まり、明治期には近代農業スタート。
昭和初期には、全国初の機械化農村が誕生。
岡山を農業機械先進県に押し上げた立役者が児島湾干拓事業だった。
むかし、むかし、岡山は海だった!?
岡山県備前県民局発行「児島湾干拓と児島湾締切堤防」より転載

岡山県備前県民局発行「児島湾干拓と児島湾締切堤防」より転載

まずは写真をご覧ください。写っているのは岡山平野の一部。平らで広いですね。写真のほとんどを占めている黄緑色の部分は農地。しかもこの農地。もと海だったところを埋め立てて整備した「干拓地」なのです。
はるか昔、岡山の南部一帯は、瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と本土の間に20余の島々が点在していました。潮流が緩やかで、河川から流出した土砂が堆積しやすく、干拓の好適地でした。
干拓が本格的に始まったのは400年ほど前から。戦国時代から江戸前期にかけ、大規模に行われるようになり、秀吉の備中高松城水攻め(1582年)の堤防造り技術がヒントとなったとも言われています。
明治以降は大阪の豪商、藤田伝三郎によって着工。以降、戦後復興と食糧増産対策として農林省に引き継がれ、昭和38年までに順次完成して現在に至っています。

教科書に見る児島湾干拓の紹介

大規模な干拓地整備により、平坦で広い田畑が誕生し、用排水路などの基幹施設が整備されるにしたがい、高い生産力をもつ稲作地帯となりました。
特に、旧興除村(岡山市南区興除)は、機械化農業の先進地となりました。
牛馬に代わる石油発動機の導入。特に耕転機は、昭和14年時点で全国の15%が集中するという普及ぶり。日本でもっとも進んだ機械化農村が実現したのでした。
こうして児島湾干拓地は、農業の近代化および、機械化農業の成功例として広く紹介されていくことになります。また、前々回の「発動機王国・岡山」でも紹介した通り、農業の近代化の推進役として、岡山において農業機械産業が興隆していったのでした。

教科書で紹介された、児島湾干拓に関する記述の一例を紹介しておきます。
「干拓地の人々は、耕地の区画が大きいのを利用して、早くから機械化をすすめてきた。はじめは外国の大型トラクターを輸入したが、地盤がやわらかい田ではうまく使えなかった。しかし、その後も熱心に研究をすすめ、ついに大正の終わりには干拓地に適した独特の小型耕耘機を考え出した。・・・この地域が、日本の農業の機械化にはたした役割は大きい」(1975, 教育出版)

児島湾干拓資料室で知る、世紀の大事業

全長約1.5キロの児島湾堤防を渡っている途中に「児島湾干拓資料室」があります(入場無料)。
ここでは児島湾干拓に関する歴史的な資料などが一般公開されています。オランダ人技師による設計、藤田伝三郎による工事の推進、困難を克服した工事の様子等々を紹介。なかでも、上空から見た干拓地写真は圧巻です。 児島湾干拓をを契機に、我が国の農業機械開発のルーツとなった岡山県。この地において、先端の農業機械部品製造に従事する、私たち渕本重工業。
よし、これからも頑張らなければと、叱咤激励される気持ちになった、現在の児島湾干拓地風景でした。

児島湾干拓資料室



児島湾干拓資料室
岡山市南区郡2980-304 (児島湾締切堤防管理事務所1階)
086-267-3002

児島湾干拓資料室
児島湾干拓資料室 2
児島湾干拓資料室 3
児島湾干拓資料室 4

児島湾干拓資料室 5
児島湾干拓資料室 6
児島湾干拓資料室 7
当社で製造している
農業機械部品の一例


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