ここのところ「歴史認識」の問題で、きしみが生じている日韓・日中の関係。これも歴史認識問題のひとつといえますが、韓国では豊臣秀吉は、祖国を侵略した大罪人として教えられ、認識されています。やがて家康の時代へと変わり、両国間の関係修復の回答として始まったのが、朝鮮国からの大使節団である朝鮮通信使でした。
慶長12(1607)年から始まり、鎖国の世にあっても、江戸時代を通じて十数回来日したと記録にあります。経路は釜山から対馬藩の用意した船で対馬、壱岐と来て、下関から瀬戸内海に入り、大坂に上陸して江戸へ。岡山県瀬戸内市の牛窓(うしまど)は400〜500人にものぼる朝鮮通信使一行が宿泊し、歓待を受けた港町です。
一行が立ち寄った各地では曲芸や楽器、舞踏などが披露されたほか、宿舎には日本の儒学者が訪れ、優れた朝鮮の学者の教えを乞うたそうです。すなわち朝鮮通信使は国交の使節というだけでなく、文化交流をも推進する貴重な役割を果たしたのでした。
そうした朝鮮との交流があったことを今に伝える「唐子踊り」。朝鮮言葉を模したと思われる口上を唱え、二人の男の子が李朝風の鮮やかな衣裳に身を包んで舞い踊り、この地区の秋祭りで奉納されます。
今までも、これからも、重要なパートナーであることに変わりないアジアの近隣諸国。2002年より、中国・上海に工場を建設し、稼働させている私たちですが、これまで順調に築き上げてきた技術・人的交流を、未来へと続く、不朽の友好関係へと広げていきたいものです。 |