過去のおいんでんせえ
バックナンバー:第十二幕『岡山の先駆者たち2』
山ア治雄

「共同記録撮影」の先駆者


「閑谷学校」
デジタルカメラの普及で、「撮影する」という行為は、ごく日常的なものとなりました。撮影は、自分の身近な家族や友人、旅の思い出など、そのときどきの時間を記録することを意味します。
写真芸術の世界で、この「記録」という、もっとも根源的な役割にこだわって、郷里・岡山の現場に立ち続けた写真家が、今回紹介する山ア治雄です。
かつて、岡山が誇る全国一の名産といえば、い草製品でした。真冬の田植え、真夏の刈り入れという過酷な仕事が敬遠され、いまではこうした光景は、岡山はもとより国内で、もう見る影もありません。すっかり消滅してしまいました。山アは20世紀後半の、社会生活も経済もめまぐるしく変貌を遂げていく中で、農家や漁村、下町を歩き、郷土に根ざした記録、文化財保護の視点から記録していったのでした。
しかし残念ながら、今日においても彼の名はあまり知られること無く、作品も散逸してしまった状況にあります。ただ、彼の先鋭的な取り組みは、石津良介、植田正治、緑川洋一らとともに日本の写真界に影響を与え、中村昭夫をはじめとした岡山県下の写真家を多く育てたのでした。

現実を捉える、やさしい視点


山ア治雄を語る上で欠かせない撮影記録が、昭和25年から29年にかけて取り組んだ旭川ダム建設と周辺住民の生活記録。年間300日も通ったほどで、現在目にすることのできる限られた作品からは、社会派というよりも、その土地に暮らしてきた人々への優しいまなざしを伺うことができます。
こうした撮影記録のほか、「岡山県の文化財」「吉川八幡当番祭」「岡山の仏たち」「尋牛 平櫛田中作品集」「特別史跡 閑谷学校」「西大寺軽便鉄道」「藤田村」「京橋」などの作品を残しています。
何を記録すべきか・・・を常に考えていたという山ア。単に目に映ったものを写すスナップ写真とは違う、写真から伝わる力強さは、撮影者の思い入れから生まれることを教えてくれます。

プロフィール
山ア治雄(やまさきはるお 1908−1987年)
石津良介とともに戦前、戦後の岡山写真界の礎を築いた写真家。共同記録という手法を戦前から行なっており、「共有財産としての記録の活用」を実践。最晩年に至るまで記録の現場に立ち、生涯を郷土岡山の記録と後進の育成に尽力した。散逸された状態にある彼の作品収集が急がれている。