過去のおいんでんせえ
バックナンバー:第十二幕『岡山の先駆者たち2』
熊沢蕃山

藩主・池田光政も傾倒した陽明学者


岡山藩主・池田光政は二人の臣に恵まれました。岡山藩制の確立期に活躍し、今日の岡山の基礎を作り上げた津田永忠と熊沢蕃山です。
今回取り上げる熊沢蕃山は、陽明学者中江藤樹の第一の門人。
岡山藩主池田光政に重用され、津田永忠とともに、零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させました。
熊沢蕃山の考えの基本には、「世の中が栄え、庶民の暮らしが向上しなければ国は繁栄しない。領民への仁政こそ国の基本」という思想があり、このことは、言い換えれば幕府の秩序を揺るがす危険性を秘めており、幕府顧問の儒学者・林羅山は蕃山の思想を厳しく批判。結果、69歳で幕命により禁固に処せられ、禁固のまま亡くなります。
幕末、蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなり、藤田東湖、吉田松陰などが傾倒。倒幕の原動力となったのでした。勝海舟は蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べています。


エコロジー思想の先駆け


「閑谷学校」 蕃山が創設にかかわった、日本初の庶民学校
「閑谷学校」
熊沢蕃山は、江戸時代初期から山林の保全の必要性を説き、実践しました。森を守らなければ、河川を守る事ができず、ひいては海の産物も貧しくなる、という今日に通じるメッセージを400年も前に説いていることに驚かされます。津田永忠とともに治山・治水等の土木事業に取り組みましたが、こうした観点から、新田開発に対しては一貫して否定的であったそうです。熊沢蕃山は「蕃山堤」「蕃山大明神」として庶民に慕われ、歌舞伎や小説の主人公にもなるほどでした。
蕃山は今日においても通じる言葉の数々を残しています。そのうちの一節をご紹介します。
「(意訳)世界は自分だけのものではない。地球は自分のためにだけ回っているわけがない。生まれた時は何も持たず裸で生まれたんだから、死んでいくときも何も持たず裸で死ねばいいのだ・・・」。
「我は我、人は人にてよく候・・・(語意)自分は自分である、人は人でいいではないか。他人と自分を比較せず、他人の真似などせぬことだ」。 なお、かつて蕃山の屋敷があった場所は、現在、岡山市北区蕃山町として名前が残っています。


プロフィール
熊沢蕃山 (くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) − 元禄4年8月17日(1691年9月9日))
江戸時代初期の陽明学者で、政治家、経世家。京都に生まれ、16歳で備前岡山藩池田光政に仕官。零細農民の救済や土木事業で業績をあげた。光政への思想的(儒教)影響力が大きい。大胆な藩政改革は、藩内からも幕府からも不審を招き、岡山を去る。幕府政策批判を続けたことで、69歳で古河城(茨城県)に蟄居謹慎を命ぜられる。享年74歳。