過去のおいんでんせえ
バックナンバー:第十二幕『岡山の先駆者たち2』
木下利玄

当時の先鋭雑誌「白樺」の同人


木下利玄歌碑(足守・近水園) 木下利玄歌碑(足守・近水園)
街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径

これらの短歌を、中学高校の教科書で目にした人もいるかと思います。この作者が、木下利玄。
作風は、はじめ官能的、感傷的でしたが、その後、口語や俗語を使用して平易で写実的なものとなり、「利玄調」と呼ばれるようになりました。
明治25年、学習院に入り、武者小路実篤と出会い、 明治43年、生涯の友となった実篤や志賀直哉、里見クら親交を結び、当時の先進的なオピニオン誌でもあった文芸誌「白樺」創刊にかかわり、大正期の社会、文化に大きな影響を与えます。利玄はこの雑誌の命名者であり、唯一の歌人として活躍しました。

岡山市足守に残る生家


木下利玄生家(足守) 木下利玄生家(足守)
木下利玄は、じつは足守藩2万5千石を治めた木下家の第14代当主。木下家は豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の兄家定に始まる名門。しかし、私生活はずっと悲運が付きまといます。4人の子どものうち3人まで失い、自らも肺結核を発症し、わずか39歳で生涯を閉じます。
利玄の生家は、岡山県の名勝・近水園(岡山市北区足守)のそばに保存され、「景観重要建造物」に指定されています。木下家から岡山市に寄贈されていたものの、荒れるに任されていたものを、なんとかしたいと地元民が募金活動を行うなどして市に働きかけ、整備される運びとなりました。
ちなみに、近水園周辺は足守藩時代の街並みが残り、蘭学塾・適塾の開設で有名な緒方洪庵とあわせて顕彰が進められています。
最後に、可愛くも、みずみずしい歌を、ふたつ。

真中の小さき黄色のさかづきに甘き香もれる水仙の花
あつき日を幾日も吸ひてつゆ甘く葡萄の熟す深き夏かな


プロフィール
木下利玄(きのした りげん、1886-1925年)
歌人、子爵。本名は「としはる」と読む。
学習院の同級生だった志賀直哉、武者小路実篤らと『白樺』を創刊。初期には小説も書いた。独自の利玄調といわれる歌風を形作った。歌集に『銀』、『紅玉』、『一路』、『立春』、『李青集』などがある。