過去のおいんでんせえ
バックナンバー:第十二幕『岡山の先駆者たち2』
箕作阮甫

ペリー来航を機に、歴史の表舞台へ


箕作阮甫旧宅 箕作阮甫旧宅(津山市西新町)
代々町医師を営む家に生まれた箕作阮甫は、父の代から津山藩医に取立てられ、京都に出て医学を学んだ後、洋学の研鑽を重ねます。
箕作阮甫が歴史の表舞台に躍り出るのは、1853年のペリー来航時。アメリカ大統領の国書の翻訳を命ぜられ、同じ時期にロシアのプチャーチンがやって来た時は、交渉団の一員として長崎に派遣されるなど、日本の開国に際して大いに才能を発揮します。
その後、開国した日本は、本格的な洋学の研究・教育機関の必要性を認識。1856年に蕃書調所を設立し、阮甫は首席教授に任命されます。この蕃書調所が、後に東京大学へと発展。また、江戸における種痘の拠点となったお玉ヶ池種痘所は、阮甫が先頭に立って尽力。この種痘所が、やがて西洋医学の学校兼病院として発展し、東京大学医学部および附属病院へとつながっていくのです。
翻訳の業績は、日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、訳述書の数は160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたっています。

秀才が続く系譜


阮甫は4歳で父を、12歳で兄をなくして、家督を相続することになりました。
家計を助けてくれていた親族の死去によって、阮甫と母は家を明け渡して、遠縁の世話になります。
その後、18歳で京都で漢方医として修行の後、藩医となり、激動の時代に活躍をするのですが、こうした活躍ぶりとは裏腹に、病身でか細い体質であったようです。 65歳で生涯を終えた後、彼の秀才ぶりは、子、孫の代へと引き継がれていきます。
明治、大正、昭和の各時代にわたり逸材が続き、たとえば次男の菊池大麓は東大総長や文部大臣を務め、わが国に幾何学を導入した人物であるなど、特に学術分野で活躍した人の名前がずらりと並んでいることに驚かされます。

プロフィール
箕作阮甫(みつくりげんぽ、1799-1863)
津山藩士、蘭学者。名は貞一、虔儒。 津山藩医の第三子として、現在の岡山県津山市に生まれる。
京都に出て、医術習得に励む。その後、藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り、洋学の研鑚を重ねる。津山藩医のまま幕府の天文台訳官を命ぜられ、オランダ書や外交文書の翻訳に従事した。