過去のおいんでんせえ
バックナンバー:第十二幕『岡山の先駆者たち2』
仁科 芳雄

湯川秀樹氏、朝永振一郎氏らを指導育成


ノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士、朝永振一郎博士。この二人の学問のルーツをたどっていくと現れるのが、日本の原子核物理学の父と呼ばれる仁科芳雄です。
仁科芳雄は、明治23年、現在の岡山県浅口郡里庄町に生まれ、岡山の六高を経て東京帝國大学電気工学科に入学。大学を首席で卒業すると、1921年から約7年間、イギリス、ドイツ、デンマークの大学に留学。デンマークではノーベル賞受賞者で量子論の創始者、ニールス・ボーア博士に師事し、「クライン・仁科」の公式を導出して、物理学の歴史に名を残しています。 帰国後は、理化学研究所主任研究員として仁科研究室を主宰。日本における新しい物理学研究の一大拠点となりました。
京都大学にも出講し、のちにノーベル賞を受賞する湯川秀樹、朝永振一郎らを指導育成。我が国理論物理学の発展に大きく寄与しました。
当時は日米開戦の前夜。軍は核分裂に注目して、新型爆弾の開発を指示。この役が、仁科研究室に回ってきます。アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年の1943年。仁科研究所はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を軍に報告。陸軍はこれに飛びついたのでした。
しかし、1945年8月6日、広島市に「新型爆弾」投下。仁科はその翌々日に広島入りして現地の被害を調査。レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定して政府に報告。これが日本のポツダム宣言受諾への一因となったと、言われています。
戦後は、理研の所長となり、文化勲章を授与。1951年に肝臓がんで60歳で亡くなりますが、一説には、原爆投下直後の広島・長崎に入市し、被曝したのが要因とも言われています。

仁科記念財団の設立と、仁科記念賞


仁科博士の死後から4年後の1955年。博士の偉大な業績を称えるとともに、原子物理学の優れた研究者を育成するという博士の遺志を継ぐため、吉田茂首相を会長として設立発起人会が結成され、1955年に財団法人仁科記念財団が設立されました。
そして、原子物理学とその応用に関し、優れた研究業績をあげた比較的若い研究者を表彰することを目的に、仁科記念賞が設けられました。 なおこの賞は、狭義の原子物理学に限定せず、理学、工学、医学等あらゆる分野において原子物理学に深い関連のある研究を対象としています。
いまなお、仁科博士の遺志は、科学技術立国ニッポンの発展を支援し続けています。

プロフィール
仁科 芳雄(にしな よしお、1890年- 1951年)。
日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた物理学者。現代物理学の父と呼ばれている。岡山県浅口郡里庄町浜中出身。