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淵本重工業 おいでんせえシリーズ第11幕 岡山の先駆者達 山田方谷

思い切った戦略で、藩の財政改革に成功


大佐山田方谷記念館 大佐山田方谷記念館
現在の岡山県高梁市に、農商の子として生まれた山田方谷(やまだほうこく)は、20歳で士分に取り立てられ、藩校の筆頭教授に任命されます。
29歳で陽明学に出会い、また、朱子学の利点も理解し、その後「知行合一」、すなわち、「知っていながら行わないということはまだ知らないということに等しい」という、揺るぎない実践哲学に従って人生を歩んでいきます。
若き藩主、板倉勝静(かつきよ)により、藩の元締役と吟昧役、いまでいう大蔵大臣を命じられたのは45歳の時。まず手始めに、藩の台所事情を調べてみると、なんと十万両もの財政赤字であることが判明。それまで、粉飾決算により事実が隠ぺいされていたのでした。
財政再建の覚悟を決めて方谷が行った主な行動、戦略は次の通り。
●債権者が集中する大阪に出向き、商人に財政内容を公開。十万両の借金の一時棚上げを依頼。
●彼らに再建策を提示。新規事業をおこし、得た利益で負債を返済していくプロセスを説明。了解を取り付ける。
●家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送らせた。
●方谷自身の家計も率先して公開。赤貧状態に身を置いた。
●信用を失った藩札を回収し、公衆の面前で焼却。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。
●領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して専売制を導入。生産に関しては生産者の利益を重視し、藩は流通によって利益が上げるようにした。
●これら特産品を、藩所有の艦船で江戸へ運び、商人に直接販売した。これによって、中間利益を排して高い収益を確保した。
●領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や商人出身でも藩士へ取立てた。
●桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。
●道路や河川・港湾などの公共工事を興し、領民に現金収入を与えた。これによって交通や灌漑が整備された。徳川という封建時代にあって、いち早く資本主義を導入するとともに、農民を保護し、武士が支配する士農工商の身分制度さえ否定して、財政改革を成し遂げたのでした。

再評価される、改革者、実践哲学者としての手腕


方谷庵 方谷庵
方谷はもともと、教育者として人生を全うするつもりの人物でした。しかし、藩主に請われて、財政立て直しに手腕を発揮。10万両の借財に苦しむ備中松山藩の財政をわずか8年で立て直し、逆に10万両の蓄財を成し遂げた功績から、現代にも通じる「リストラの天才」として再評価されています。彼の業績や行動哲学を学ぶ勉強会も、各地で盛況です。
また、長州や薩摩の志士たちが、倒幕を口にする以前から、徳川幕府の崩壊を予言していた彼の先見性にも驚かされます。戊辰戦争が始まり、備中松山藩は朝敵となります。備中松山藩は西洋銃による強力な軍事力を有していたものの、藩主に代わって方谷の決断で無血開城。これも、藩民を無傷で救いたかったが故でした。明治新政府になり、あえて朝敵側であった方谷に入閣の要請があったのも、彼の才と、先見性が高く評価されてのこと。これに対し、方谷は一切を断り、余生を郷土の教育者として生きる道を選んだのでした。
現代に生きる私たちが、「方谷先生」の生き様から学ぶことはまだまだ多々、と言わざるを得ません。

プロフィール
山田方谷(やまだ ほうこく)1805年-1877年。
備中松山藩、現在の岡山県高梁市で生まれる。幕末期の儒家・陽明学者。幕末の混乱期には藩を滅亡から回避させることに成功。
明治維新後は多くの招聘をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。方谷は号。備中聖人と称された。