五・一五事件と犬養毅
犬養毅は明治-昭和時代前期の政治家。彼の名前を最も有名にしているのが五・一五事件。1932年(昭和7年)5月15日に大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件で、武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺。
このとき、しばらく息があった犬養が、すぐに駆け付けた女中に言った
「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」「話せば分かる」という文句はあまりに有名。
政治家としての彼は、当初「憲政の神様」と呼ばれた半面、誰にもおもねらず、少数政党に身を置いたことから辛酸をなめることになります。また、一度は政界から引退した犬養でしたが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けたのでした。
そして70歳を超えた1929年(昭和4年)、嫌がる犬養でしたが、周りから強引に説得されて大政党・立憲政友会の総裁に選ばれたのでした。
五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放。そのことが、さらに大掛かりな二・二六事件の遠因となったと言われています。
「憲政の神様」はたまた「変節漢」あるいは「無欲の人」
人間・犬養毅はどのような人だったのでしょう。
一時は「憲政の神様」ともてはやされ、逆に「変節漢」とも呼ばれた犬養でしたが、確かに彼は言論に正直なあまり、毒舌で有名だったそうです。これは意志が強固で、悪や卑劣を憎む犬養の性格からくるものでした。
私生活では全く無欲の人、というのがもっぱらの評で、細かいことには無頓着。困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはいられないところもあったようです。
ところで、伝承によると、遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)。あの桃太郎の犬のモデルになったとされる人物です。ですから、吉備津彦命の随神であったとして吉備津神社への崇敬の念はきわめて強く、吉備津神社のすぐ近くには犬養毅の銅像が建てられています。
本殿に続く吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫によるものです。
犬養毅(いぬかいつよし)1855-1932年。
現・岡山県岡山市北区川入生まれ。新聞記者を経て政治家となる。
中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁、文部大臣、逓信大臣、内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣などを歴任。号は木堂。