過去のおいんでんせえ
バックナンバー:第十一幕『岡山の先駆者たち』
淵本重工業 おいでんせえシリーズ第11幕 岡山の先駆者達 児島虎次郎

わが国初の西洋美術館は、 一実業家の文化事業として誕生。


大原美術館大原美術館(岡山県倉敷市)は1930年に開館した、日本初の西洋美術館です。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、美術館の創設者であり、倉敷の実業家であった大原孫三郎の先見性は特筆すべきものがあります。
そして、世界的に有名となった大原美術館コレクションの立役者として知られているのが、大原が常に経済的支援をし続けた、同郷の洋画家、児島虎次郎です。
児島は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の4年課程をわずか2年で卒業し、大原の支援で留学したベルギーの美学校を首席で卒業するほどの優れた才能を持った画家でしたが、むしろ、大原コレクションの立役者として名が知られているのは、いかに彼の審美眼が優れ、我が国の洋画壇発展に貢献したかの証とも言えます。

多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物を持ち帰りたい・・・。 児島虎次郎の手腕と行動力。


そもそも、大原美術館コレクションの目的はなんだったのでしょう。
美術館開館後は広く一般に公開されることになりますが、コレクションの主目的は、児島虎次郎自身が海外留学を経験する中で切実な願いとなった「多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物と接する機会を与えたい」というものでした。
大原は児島の考えに賛同し、何を購入するかについてはすべて児島に一任。以降、児島はヨーロッパ各地で多くの西洋絵画購入に奔走します。
モネの『睡蓮』は晩年の画家本人から児島が直接購入したものであり、大原美術館にあるのが奇蹟だともいわれているエル・グレコ『受胎告知』は、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出したもの。マティスの『画家の娘―マティス嬢の肖像』も画家本人に根気強く依頼して譲ってもらったものです。
児島虎次郎が47歳でなくなると、大原孫三郎は翌年の昭和5年(1930年)に、児島の絵と児島が収集した名画を保存展示するため、大原美術館を建設したのでした。

プロフィール
児島虎次郎 こじまとらじろう(1881〜1929)
洋画家。現在の高梁市成羽町下原生まれ。東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。印象派の画風を示し、「ベゴニヤの畠」「酒津の秋」などの作品を残す。大原孫三郎の委嘱を受けて渡欧。のちに大原美術館の基礎となる作品を収集した。