過去のおいんでんせえ
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淵本重工業 おいでんせえシリーズ第11幕 岡山の先駆者達 人見絹江

なでしこジャパンの原点に、この人あり


女子サッカーチームなでしこジャパンに見られるように、世界のスポーツ舞台で日本人女性が大活躍するのも、そう珍しいことではなくなりました。 こうした、たくさんの女性アスリートたちの原点を探っていくと、一人の女性に行きつきます。それが、日本人女性初のメダリスト、人見絹枝さんです。
人見さんが陸上競技で頭角を現したのは高等女学校に進学してから。もともとテニスの選手でしたが、スポーツ全般に才能を発揮し、県内で行われた競技大会で走り幅跳びの日本記録を出します。
その後、現在の日本女子体育大学に進んで本格的に陸上競技に取り組み、100m、200m、走り幅跳びの世界記録を次々と打ち立てたのでした。 しかし当時の日本は、女性がスポーツをすることに冷ややかで、太ももを露わにしているというだけで誹謗中傷の的となりました。結果、たった一人の日本人女性として出場することになったアムステルダムオリンピック(1928年)。周囲を見返すためにも、「出る限りは勝たなければならない」と、悲壮な決意を持って100m走に挑みました。

壮絶。女子800メートル決勝


彼女が最も得意とする走り幅跳びは当時の種目にありませんでした。
そこで100m走に絞りますが、結果はまさかの敗退。このままでは日本に帰れないと、人見さんは急遽800m走にエントリーしますが、正式な競技として走った経験はありませんでした。
レースは壮絶で人見さんは僅差の二位でゴール。日本人女性初のメダリスト誕生です。しかし、人見さんも、優勝したドイツ人の選手も共々に失神。女性にはあまりに過酷すぎると、800m走はメルボルン大会(1956年)まで種目から除外されることになったのでした。
銀メダルを獲得した8月2日の、ちょうど3年後の同じ8月2日に、人見さんは24歳という若さで亡くなります。
アムステルダム大会から64年後の平成2年(1992年)、人見さんに続く、二人目の陸上競技メダリストが誕生します。同じ岡山出身のマラソンランナー、有森裕子さんです。奇しくもその日は同じ8月2日。あまりにドラマチックな奇跡でした。

プロフィール
人見絹枝(ひとみきぬえ)(1907〜1931)
御津郡福浜村(現岡山市福成)生まれ。
県立岡山高等女学校在学中、走り幅跳びで女子日本最高記録を出した。現日本女子体育大学卒業後、大阪毎日新聞社運動部記者として活躍する一方、スウェーデンで行われた世界女子オリンピックでは走り幅跳びで世界新で優勝。アムステルダムで行われたオリンピックでは、日本の女子選手として初めて出場し、800メートルで銀メダル。
岡山県総合グラウンドの一角に銅像があります。