わしの眼は十年先が見える
大原美術館
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『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』城山三郎著に人物伝は詳しいですが、ここまで言い切った人材こそ、大原孫三郎(おおはらまごさぶろう)その人です。
後世に生きる私たちは、彼のこの言葉が大げさでなかったことをあらためて知ります。
倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務めながら社会、文化事業にも熱心に取り組み、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補修学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。これらすべて大原孫三郎の行動力がなせる業でした。
信頼のおける人物には、とことん任せるのも彼の流儀。わが国初の西洋美術館である大原美術館は、彼が支援した若き画家、児島虎次郎にすべてを任せて収集したものです。
先見の明あり。しかも、全方向。繊細で豪放磊落。こんな人物、ちょっといません。
倉敷の景観と大原孫三郎
日本を代表する観光地となった倉敷。大原美術館を中心に白壁の土蔵が立ち並び、掘割には柳がそよぐ・・・。こうした風景も、じつは大原孫三郎の功績、大です。
もともとこの地の大地主の家に生まれ、現在の掘割は物資を運ぶ運河でした。運河が自動車運送にとって代わり、役割を終えると運河はいつしか腐臭を放つどぶ川に。
埋め立てて道路を広げよう、との声がありましたが、大原孫三郎を中心とした人々はこの風景が、やがて貴重で、かけがえのない財産になるはずだと、ここでも先見の明を発揮して阻止。
こうして倉敷らしい風景は生まれたのでした。
大原孫三郎がもしいなければ、倉敷の風景もずいぶん変わっていたはずです。
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう)1880年- 1943年
岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績(クラボウ)を営む大原孝四郎の三男として生まれる。
若いころは富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り大借金を抱え謹慎処分。謹慎中に日本で初めて孤児院を創設した石井十次を知り、その活動に感銘を受け、のち、さまざまな社会貢献事業を手掛けた。